わたしのこの仮説を展開するには、まず、『カラマーゾフの兄弟』が掲載された1879年1月号「ロシア報知」が、いつ発売されたか、と関わってくる。あるいは、いつが校了だったか、ということも大切である。つまり、ぎりぎりどこまで彼は、「著者より」の校正にねばったか、ということだ。それがはっきりすれば、安心して仮説が立てられる。日本だといろいろある。1月号が1月のはじめ、ということはないが、1月号は、早いものでは、12月の、5、6日ぐらいからある。文芸春秋は、10日頃の発売だと思う。新潮、群像その他の文芸誌は、前の月の7日前後である。19世紀のロシアだと、活字を組む作業があるので、時間はかかるが、レイアウトなどに時間を費やすということはあまりなかったと思われる。校了から発売まで10日と考えて判断する。
かりに雑誌が、12月20日の発売だったとする。
すると、ドストエフスキーは12月5日ぐらいまではねばれたはずである。
しかし、これも憶測にすぎない。
そもそもわたしは何がいいたくて、こんま込み入ったディテールにこだわっているか、ということだ。
そう、どの段階でアリョーシャが主人公として想定されたか、それを知りたいのだ。つまり、「第二の小説」の構想がいつの段階で生まれたか、ということを知るには、このあたりの事情がとても大切になるのだ。