罪罰のゲラの作業を進めながら思うことがある。想像以上疲れるのだ。
冒頭の部分にどれだけ時間をかけたか、それでも納得がいかない。
異常に暑い、か、異様に暑い、か、途方もなく暑い、か、めっぽう暑い、か……
ゲラと平行して翻訳の作業も進めている。
歩みはのろいが、確実に進んでいる。第二巻をいつ出せるかが大切だからだ。
第二巻は比較的短い。
しかし、問題はやはり第3巻だ。かつて『カラマーゾフの兄弟』を訳しているとき、モークロエの場面を翻訳するときには、どんなふうな高揚感を経験できるだろうか、とひたすら想像して過ごしていた。
それにしも、罪罰は、ベートーヴェンのまさに第五である。完璧といえる形式感に貫かれている。
謎はまだ訪れていない。
今日、まいじょさんとサーシャさんのコメントにもあったが、朝日新聞で、「ロシア文学ブーム再来」という特集記事があった。たしかに、東京新聞や、文藝春秋での最近の取り上げられ方をみても、そんなふうな印象と期待感がある。ロシアの重さの普遍性については、昨年からありとあらゆる機会を見て論じてきた。グローバル化時代の二極化と農奴制崩壊後のロシアが二重写しになる。
罪罰冒頭の都市描写などは、現代の日本そのものではないか。ラスコーリニコフの貧しい、奇矯な帽子にしたってそうだ。
面白いと思うのは、ラスコーリニコフの名前だ。断ち割られたもの、の意味が少しずつわかってきた。もちろん、分離派への連想を否定してかかることはできないが、肝心なのは、ラスコーリニコフに二つの意識があって、それはあるとき断ち割られたもの、ということだ。殺人の計画を遂行しようとする意志と意識、そしてもう一つは……それが独立し、ほとんど干渉jしあわない。
そしてその断ち割られた二つの意識の上にのしかかるのは、運命の手だ。
これから、ゲラを直す作業のなかで、もう一度、罪罰の問題性について考えてみようと思う。